翌日、曇りで寒い。気温は4度だった。
ふるさとセンターへ向かい取材の続きをした。膝を付き合わせ耳を傾ける看護師、保健師の方。微笑みながら真剣な眼差しを向け一人一人の話を聞いている。お互いがそれまで見知らぬ人間であったのに小さな信頼という糸が結ばれていく。原点だ。一人対一人の人間同士の交流だ。
昼前に大沢小についた。
給食の配膳の準備をしていた。
給食は手作りのものだった。食欲旺盛な子、マイペースでゆっくり食べる子、戯けながら、おしゃべりしながらなど給食時間の子どもは微笑ましい。そして休み時間、体の奥に押し込まれていたはしゃぎ虫たちが一斉にとびだしてくる。笑顔と歓声と肉体の躍動感に引き込まれ、体いっぱいにエネルギーが注がれていく。いつのまにかずっと笑顔でカメラをまわしていた。
将来の夢は?との質問に静かにお医者さんになりたい、はにかみながら学校の先生になりたい
大っきな声で漁師になりたいなど屈託無く話してくれた子も、無言で避けていく子も、一言も話さないけれどずっと後ろにくっつてくる子もいた。
どんな子もその子どもたちの深くにある玉のような生命は金粉に包まれているようにキラキラ輝いているように見えた。
この体験をした子どもたちのこころは?その瞳、その笑顔の奥に湛えているものは?
苦しみや痛みを生きる糧として受け止められるには、この子どもたちの無垢ないのちは真綿に包んであげないと壊れてしまうのではないか。何ができるのか。
この子どもたちにまた会いたいと願った。
小学校を後にし、海岸線へと向かった。浪坂海岸の松林に向かい歩いていくと倒れた松林と瓦礫の中から少年3人が折れた木の枝を杖にして歩いてきた。吉里吉里中学校の野球少年たちとの出会いだ。思春期の彼らは言葉少ないながらも立ち止まってしばらくの間訥々と話をしてくれた。
家を流されたのだと。避難所には350人ほどいたが、今は120人ほど。野球の話に及ぶと恥ずかしがっていた彼らも3人肩を組んで撮影させてくれた。分かち合える友がいるというのは心強いだろう。別れ際、少年たちと夫は以前撮影したプロ野球選手の写真を今度持って会いにいくよと約束していた。
瓦礫という言葉、使おうとするとどうしても喉の奥に引っかかる。抵抗があった。役に立たないもの、価値のないつまらないものという意味だ。でも、それらには壊れる前はそのもののいのちが宿っていた。それぞれに名前がついてそれぞれが役に立っていた。壊れて粉々に元の形を整えていないからそういう全てを総称してこの言葉があるのかもしれないが。いのちが宿っていたから語りかけてくる。そこにその人々の手に触れていたものをその破片たちをこの一言で括り、私には考えずに使えるほど勇気がない。認める勇気がない。だから「そこにあったものたち」と書こう。
ten-maru-chan
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