4月20日 12時に自宅より出発した。高速道路では自衛隊の車列、警察車両がすれ違う。非常事態であるという印象の一つとして目に焼きつけられた。道路は激しかった揺れを思わせる爪跡が所々に見られた。無事に辿りつけるのか。助手席に座りながら体に力が入り緊張していった。
18:30盛岡に入った。矢巾町にある国民宿舎に予防会の方々と合流し、翌朝岩手医科大でのネット会議、山田町ふるさとセンターでの看護師、保健師の活動を取材した。
彼女達は5:00に起床、6:00出発で往復の移動に4時間かけて活動をしていた。前夜、宿で彼女達から聞いた「ここは天国ですよ」という言葉の意味が宮古、山田町へと入っていくと目の当たりにした光景から理解できた。
「戦場だ…。爆弾が落とされたようだ…。ここは日本なのか…。」
言葉が出てこない…。何をどうしてどうすればいいのかも考えられず気がつくと無防備のま視覚に入ってくる、臭覚に入ってくる、一足ごとの感触そのもの、そのままのものを全身に染み込ませていた。
取材を終え、私達はメンバーと分かれ自分達の取材を始めた。
何のツテもないこの地で、人々に声を掛け、話を聞かせてもらい、撮影をさせてもらえるのか。
この惨状に巻かれた人々はよそ者の私達にこころを開いてくれるのか。不安だった。
それでも、やるしかない。何処からともなくくる恐怖が襲ってくる。訳も分からぬこころは右往左往し気を抜けば泣きわめきそうだった。私が怖気付いて何が変わる?私が泣きわめいても何も変わらない。そう言い聞かせ震え立たせ目の前の全てをかき集めて私のなかに注ぎ込んだ。人々の状況を多くの人に分かってもらいたい。いや、何よりも私達がそのこころを共有したい。裸で向き合わなければ。自分たちが彼らに近づこうとしないと分かりっこない。
この思いが自分たちの生活が今までのように有ることに後ろめたさを感じさせ、有るものを無くしていくことにどちらも咎めることなく突き進み、生活の現実に意識を向けることを拒み、次第に逼迫していった。
当時児童数93名、山田町大沢小学校へ撮影交渉に向かった。
私達には小学生の娘がいる。この震災の記録の撮影取材はどちらからともなく子どもたちを撮りたいと考えていた。子どもたちは私達が立ち上がる希望であり未来だと感じていたからだ。
副校長先生は突然の訪問に丁寧に応対して下さった。有り難かった。話を聞いているうちにこちこちに固まった鎧が外れていく。副校長先生のこのこころの温もりが柔らかにしてくれた。
時間を割いて様々お話しを聞き、昔から津波被害がある地域で、代々[海よ光れ] の劇を演じている学校と説明していただいた。
明日の昼の時間に撮影させて頂くこととなった。
子どもたちが喜びそうな駄菓子を買い込んできたので、お届けしますからと伝えた時の
嬉しそうな笑顔は印象的だった。その笑顔が嬉しくてそっと抱えながら車に乗り込んだ。
ten-maru-chan
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