こころが置いてきぼりの現実から一夜が明けた。状況を理解しようと扉を開けてしまってから、耳や目にはいってくる情報を知れば知るほど怖くなり身慄いした。行方不明となっている人の数は、まるで戦争が起こったのではないかと思えた。
畳み込むようにこころがどんどん溢れてくる。
今こうして息をしていて家族無事でいることは、当たり前のことではないのかもしれない。
もしかしたら自分や家族にも起こり得たことなのではないか。こうして生きていることは
生かされているからだ。自分が生きているから家族が無事だからよかったではないことだ。
人ごとじゃない!自分ごとじゃないか!
居ても立っても居られない、何かできることをしなければという焦燥感にとらわれていった。
写真家である夫も同じ思いで、来る日も来る日も二人でどうしたら現地に入ることができるのかその話ばかりだった。夫はこの時三年前に余命1カ月と宣告された悪性リンパ腫の癌の闘病生活から抜け出しかけていた所で体調には未だ波があった。前年、主治医から止められていたにも関わらず結核の予防、治療活動されている状況の撮影取材にアフリカのザンビアへ、異変を生ずることなく帰国したが、病から生還した生命の火種を残しているようだった。彼にとっての病が、ザンビアが、生と死に向き合ったことが急き立てているようだ。再び頂いた生命の意味を探しているのだろう。体調に何が起こるか分からない中、一人では行かせられない。そして私達には何ができるのだろうと話し合った。
私達にできること、写真を撮って記録をのこしていくことだ。生かされた人びとと裸で向き合ってこころの底からの声を記録していくことだ。そして亡くなっていった方の声を掬い上げていくことだ。自分ごとだからこそ自分を捨てて深く深く入っていこうと私達は決めた。
前年のアフリカのザンビアを撮影させていただいたご縁で公益財団法人結核予防会のTN氏が間に入って下さり当時総務部長であり震災対策委員会を指揮されていたTS氏に繋いで頂いた。 ボランティアチームの一員に入らせて頂き取材報告をさせていただくことになり4月20日盛岡に現地入りし活動されている医療チームと合流する運びとなった。
私達は盛岡から福島まで見ていこうと計画した。小型車の車に載せられるだけ思いつくだけの
物資を買い込み準備を始めた。コンタクトレンズの洗浄液、オムツ、生理用品等など日常当たり前に有ったものは多めに持っていてもいいだろう。種類を多くと考え隙間なく詰め込んだ。おそらく一週間はかかるだろう。どうなっているのか、余震が続いていたので何が起こるのかわからない。とにかく車中泊できるよう、トイレができるように準備をした。
小学生の娘と犬を一週間も実家に預けていくのは正直忍びなかった。分かっているかいないのかさえ分からないが、正直に私達の思いを説明した。
「今いかなければならない」と。
ten-maru-chan
0コメント